【主要文化財】史跡

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佐太陣屋跡

 京都・大坂間の交通及び軍事上の要地であることから譜代大名永井氏がここに陣屋を持ってきたと考えられ、永井氏の蔵屋敷の役目も果たし、年貢米の納入は勿論、物資調達など永井氏の台所の役割を担っていました。

所在地

守口市佐太中町7丁目5番2号

交通アクセス

京阪バス「佐太天神前」下車 北西へ徒歩約7分

式内 津嶋部神社

 高瀬神社と共に延喜式内社として延喜式神名帳に記された由緒深い神社です。

所在地

守口市金田町6丁目15番6号

交通アクセス

京阪バス「宮垣内」下車すぐ

弥治右衛門記念碑

 大久保地区一帯は低地で、特に藤田村は水はけが悪く、稲の水腐れ被害は毎年のようにおこっていました。

 慶安元年(1648年)藤田村の小泉弥治右衛門は、村民の被害を取り除こうと、幕府の許可なしに排水樋を作りましたが、翌年3月22日、幕府を無視したとして、一家は処刑され、家財・田畑も没収されました。

 村民たちは、村のために犠牲になった弥治右衛門を偲び、後世に伝えようと、墓碑の代わりに、俗名を刻んだ道標をつくりました。

 その後、昭和7年(1932年)には、記念碑も建立されました。現在、この記念碑のあるところは、公園になっています。

所在地

守口市弥治右衛門前公園(藤田町3丁目4番)

交通アクセス

京阪電車「古川橋駅」下車 北へ徒歩約10分

一里塚跡

 一里塚は、徳川2代将軍秀忠が5街道を整備した時、一里(約4キロメートル)ごとに街道の両側に土を盛って里程の目標にしたもので、多くは榎・松の木が植えられていました。

 守口宿の上の見附にあたる、現在の浜町2丁目の一里塚には、記念碑が建てられています。

 大名が宿泊したり通過する時は、問屋や庄屋などの村役人が、麻上下などを着てこの一里塚まで送迎しました。

所在地

守口市浜町2丁目93番

交通アクセス

地下鉄谷町線「守口駅」下車 北東へ徒歩約10分

大塩平八郎ゆかりの書院跡

 白井家の隠居所で、江戸時代の陽明学者で大坂東町奉行所の与力大塩平八郎が、守口近郷の農民に陽明学を講義したところです。

 当主の白井孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行い、大塩平八郎の乱【大坂騒動、天保8年(1837年)2月19日】に参加しましたが、わずか1日で鎮圧され、後に一家には処罰が下されました。

所在地

守口市竜田通1丁目

交通アクセス

地下鉄谷町線「守口駅」下車 東へ徒歩約5分

守口宿本陣跡

 本陣は、江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使・宮門跡等が宿泊した公認の宿舎で、守口宿の本陣は、竜田通1丁目にありました。

所在地

守口市竜田通1丁目

交通アクセス

地下鉄谷町線「守口駅」下車 東へ徒歩約2分

文禄堤

 豊臣秀吉が、京都・大坂を結ぶ最短陸路として、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じ、文禄5年に整備させたものです。これが京街道(大坂街道)で、のちに東海道とよばれるようになりました。

 この堤は、約27キロメートルといわれていますが、度重なる淀川の改修などで堤のほとんどは姿を消しており、守口の本町2丁目付近だけで、当時の面影を偲ぶことができます。

所在地

守口市本町2丁目

交通アクセス

京阪電車「守口市駅」下車 北へ徒歩約3分

式内 高瀬神社

 延喜式内社として津嶋部神社と並んで守口市内の古社であり、天正年間(1573〜1592年)に織田・三好の兵火で社殿は焼かれたものの、その後、江戸中期に再建され、当時は、神殿その他すべて備わった大社で、八幡宮とも呼ばれていました。

所在地

守口市馬場町1丁目1番11号

交通アクセス

京阪電車「土居駅」下車 南へ徒歩約5分

高瀬川跡

 高瀬川は古歌にもうたわれ、平安時代には高瀬の淀、江戸時代には守口川とも呼ばれていました。

 この高瀬川には、僧行基がかけたといわれる橋があり、その橋の遺物と思われる橋杭の石柱が出土したことから、相当大きな川で、かつては淀川の本流であったといわれています。

所在地

守口市馬場町1丁目

交通アクセス

京阪電車「土居駅」下車 南へ徒歩約7分

存覚上人旧跡(光明寺)

 存覚上人は、本願寺三世覚如上人の長男で、観応元年(1350年)に当地方を教化したとき、廃寺同様になっていた光明寺を再興し、ここを起点として教えを広めました。

所在地

守口市大枝北町15番7号(光明寺)

交通アクセス

京阪電車「守口市駅」下車 南へ徒歩約10分

喜左衛門記念碑

 旧寺方荘をはじめとする12か村一帯は、排水の便が悪く常に悪水に悩まされていました。

 村民は、たびたび樋を設けることを幕府に願い出ましたが、認められなかったので、庄屋の喜左衛門は寛永11年(1634年)ついに意を決し、許可なく樋を築き、水害は一掃されました。

 樋はそのまま置かれましたが、喜左衛門は幕府を無視したとして翌年3月15日処刑されました。

 明治15年(1882年)、12か村の人たちは喜左衛門を慕ってここに碑を建てました。

所在地

守口市南寺方中通1丁目5番

交通アクセス

京阪バス「寺方」下車 南へ徒歩約5分

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