守口市の沿革

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守口市は

 大阪平野のほぼ中央部、淀川の左岸にあって、南と西は大阪市に、東は門真市に、北は寝屋川市に接した平坦地です。
 数千年前までは海(大阪湾)でしたが、その後、隆起作用や上流からの土砂の堆積などにより陸地化が進み、やがて紀元前2〜3世紀に大陸から農耕文化(弥生文化)が伝わる頃には、本市周辺地域は低湿地帯や島々が形成され、この低湿地帯で農耕生活が始められたと考えられます。
 4〜8世紀になって大和政権が確立されると、渡来人の技術を用い、当地方でも開発を始めました。それが茨田堤(現在の古川を中心とした所、その一部が門真市宮野町に残っています)の築造で、淀川の改修・治水事業の最初です。
 奈良時代には、名僧行基(ぎょうき)によって高瀬寺が建立され、また奈良街道の整備、高瀬堤樋、大庭溝(水路)の改築などの事業も行われました。この時代の「河内風土記」や「和名抄」などに大窪郷、高瀬郷、佐太郷などの名がみられ、その発展の跡がしのばれます。

平安・鎌倉時代になると

 本市は、朝廷や寺院・武家などの荘園となり、南北朝の動乱期には生産力の増強にともない、河内17か所として争奪の目標に浮かび上がるようになりました。
 室町時代には、畠山氏から権力が三好氏に移り、蓮如上人が石山坊舎を創設すると、坊舎の勢力は本市にまで及ぶにいたりました。そして、織田信長、池田信輝などの統治を経て大阪城落城までは豊臣家の直轄領として推移することとなります。

その後、江戸時代に入って

 守口は元和2年(1616年)東海道の宿場となり、元禄年間に守口町と公称されました。
 近代になり、明治43年(1910年)に京阪電車が開通、昭和6年(1931年)には国道1号線が完成、大阪市電も運転を開始して守口の発展は一層促進されました。

昭和21年(1946年)11月1日に

 当時の守口町と三郷町が合併し、市制が施行されました。全国206番目、大阪府で11番目の市として誕生しました。
 当時の市域は、ほとんど田畑で占められていましたが、大都市大阪市に隣接し、交通の便が良い地理的条件から、昭和32年(1957年)に庭窪町と合併し、現在の市の姿となったことで市勢は急速に進み、人口は昭和46年(1971年)にピークの18万8千人を数えました。
 昭和52年(1977年)には大阪市営地下鉄谷町線が本市まで開通し、その後、昭和58年(1983年)には大日まで延伸されました。また、京阪電鉄高架化事業も昭和57年(1982年)3月に完成し、さらに、京阪守口市駅前開発事業も昭和60年(1985年)10月に竣工しました。

平成9年(1997年)には

 「なみはや国体」夏季大会の開催にあわせた大阪モノレールが大日および隣接の門真市まで延伸され、大阪空港への直接乗り入れが可能となり、市内公共交通網は現在の形に整備されました。
 平成15年(2003年)オープンの大日駅地下自転車駐車場整備をはじめ、翌年には都市計画道路大日駅前線と大日駅前交通広場が完成し、東部地域の拠点として取り組んだ大日駅前整備事業は、ここに整いを見せました。

本市の行財政運営は

本市では、3次にわたる「もりぐち改革ビジョン」(案)を策定し、徹底した事務事業の見直しを含む積極的な行財政改革に取り組むことにより、強固な行財政運営の基盤を確立してきましたが、令和6年2月にこれまでの改革マインドを継承するとともに、市の保有する様々な経営資源を最大限に活用し、行政コストを抑えつつ、市民サービスの更なる向上を目指すという「行政経営」の視点を踏まえ、より質の高い、効率的・効果的な行政運営を進めるため、「第3次もりぐち改革ビジョン」(案)を引き継ぐ新たな計画として、守口市行政経営プランを策定しました。 今後も新たな手法による改革と新たな政策創造の取組を継続することを基本としつつ、 いわゆる「ヒト・モノ・カネ・情報」という市の保有する様々な経営資源を最大限に活用し、行政コストを抑えつつ、新たな政策創造による市民サービスの更なる向上を目指すという 行政経営の視点を持つことを基本理念とし、本計画を推進します。

 

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